彼女は彼に、お客さんはこんなところにいらつしやらない方がよろしいですね。それに、もし私に同情して下さるのなら、もういらつしやらないで下さいね。ここにゐるあひだは、人間でなくただ機械みたいにつとめてゐようと思ひます。いく度もお目にかかるとだんだんおなじみの気持になりさうですからと、まるで兄にでも意見するやうに言つたさうである。彼女はよほど強い気持の人か、それでなければごくうぶな心の娘であつたらう。青年はもうあすこには行きたくない、ひどく気がいたむと言つてゐた。そこの空気が彼が考へてゐたのとひどく違つてゐたので、それを誰かに話したく、私に話したのだらうと思ふ。彼の話は全部ほんとうだと思ふけれど、彼がきかされて来た話が全部ほんとうかどうかは分らない。人はだれしも小説を作つて物語りたい気もちを持つものだから。

 会議の席に、王の側に坐ること、それはさほどの大事ではありません。そんな些細な事が詩にさはるのでせうか? 弟子が訊く。シヤナアンは少し起き上がつて、ゆめみるやうに前方を見ながら言ふ、燈火祭のときだつた。詩は神のお作りなされた力強いもの、又かよはいものの一つであるとお前が言つた、すこしの侮辱にも死んでしまふかよはいものであるとお前は言つた。
 一ばん弟子は何と返事しようかと他の弟子たちに相談する。最年少の弟子が詩人の足下に跪いて歎く、父の畑に働いてゐた私をお手もとにお呼びになつて、今さらお捨てになるのですか、私はこれから何を愛しませう? 私の耳に音楽を聞かせて下さつたあとで、騒音の中に行かせようとなさるのですか、今からトランペツトもハアプも捨てませう、破れた心で詩は作れません。

当に長い月日を過して来たからSはよく中国の話をした。その時分上海が非常なインフレになつたので、紙幣をかばんに一ぱいつめ込んでレストーランに行き料理をたべる話なぞきかせた。「コーヒーが一杯五千円です」と彼が言つた。まだその時分私たちの東京ではコーヒーが一円ぐらゐなものであつたらう。だから五千円と聞いて眼がまはるやうで「コーヒーが五千円で、お料理が十万円ですか? 東京がそんなインフレになつたら、私たちは死ぬばかりですね。でも、死ぬのも大へんにかかりませう?」私が言ふと「百万円以上かかるでせうね。しかし、そんな心配をなさらんでも、衣裳をたくさんお持ちでせうから、必要の時それを一枚一枚売るんですね。大島の着物を一枚十万円ぐらゐに売れば、日本のインフレはどうにかしのげるでせう」Sはさう言つてくれた。

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